映画「もうひとりの息子」に思う
同じ病院で同時期に男児を出産した、パレスチナ人女性とイスラエル人女性ーーそれぞれの家族がたくさんの愛情をかけて子どもを育て、ようやく成人になろうという時、二組の家族に悲劇が起こります。
「赤ん坊の取り違え」という現実を前に、当事者たちが「家族とは何か?」「親の定義とは?子の定義とは? 兄弟の定義とは?」という問題に突き当たります。とくに印象的だったのは、双方の家族の父親たち。双方の母親は、血がつながっていなくても息子は息子として受け止め、動揺しつつも現実を早く受け入れているのに対し、父親は言葉にできないほどの衝撃と喪失感を抱えて、人知れず悲しみに打ちひしがれます。悲しみの深さは、見ているこっちまでつらくなってしまうような悲壮感にあふれています。
そして、当然絡んでくるパレスチナ・イスラエル問題。特に深刻なのは、取り違えられた息子たち二人。いままで自分が信じてきた出自へのアイデンティティや信仰が一瞬にして意味をなさなくなってしまったわけです。まして、敵と思っていた人々の血が自分の中に流れていると知ったときの衝撃や、今暮らしている社会の中で急に自分が異分子のように思えてしまう苦悩は想像を絶するものに違いありません。
それでも、それぞれが自分の立場から、徐々に現実を受け止めていく様子は、涙なしでは見られません。
生まれた時は誰も「自分は何者である」とか「あの人が憎い」とかそういうものが何もない状態で生まれてくるはずなのに、大人になるうちに、自分が暮らす社会のいろんな価値観を身に着けてしまっているんだなあと思いました。実は「自分は〇〇である」なんて、何も意味をなさないのかもしれません。ただ、自分は自分である…そういうことなのかなと。この二組の家族が受け入れたもの――それは国境も血もアイデンティティも価値観もすべてを越えたところにあったのではないかと思います。自分の中の何かを揺さぶられる、そんな映画です。
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